浄興寺の縁起

わが浄興寺は、その創建からほぼ800年を経ているが、その経過は4段階に分かれているので、その各段階を要約して述べてみよう。

第1段階 常陸における創建時代(53年間)

 今を去ることおよそ800年前、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人(以下宗祖)は、越後におけるご流罪が解かれた後、東国へ向かわれ、常陸の国・稲田の郷にある吹雪谷(現茨城県笠間市笠間)に草庵を建てられた。時に建保2年(1214)正月の頃である。宗祖はこの草庵を「歓喜踊躍山 浄土真宗興行の寺」と称し、略して「浄興寺」と呼ばれた。宗祖はここに10数年お住まいになり、貞永元年(1232)に京都へお帰りになる際、この浄興寺を弟子の中の一人、善性房に譲られたのであった。
 この善性房は、後鳥羽天皇の第3皇子であったが、承元4年、12歳の時に出家し、諸国を行脚した末、常陸に下向し、板敷山に住したが、建保6年(1218)に稲田の宗祖を訪問し、ついに弟子となり善性房鸞英と改名した。やがて、宗祖が京都へお帰りになる際、宗祖から浄興寺を譲られ、その第2世となる。善性房34歳のことであった。弘長2年(1263)、京都で宗祖がご臨終の際は、善性房は宗祖を厚く看護し、ご往生後はご遺骨の一部を奉じて関東へ帰り、稲田の浄興寺に納めたのであった。
ところが、翌年の弘長3年1月、浄興寺は兵火に遭い焼失したため、文永4年(1267)、信濃の国・長沼の寺領地に寺を移したのであった。

第2段階 信州・長沼時代(294年間)

 浄興寺を信州長沼に移した翌年の文永5年8月20日、善性房が70歳で没した。その後、浄興寺は連綿として続き、永禄4年まで294年間、長沼において活動した。鎌倉・室町時代のことである。
 時はやがて戦国時代に入り、第13世の周円房西賢(以下西賢)の代の永禄4年9月に上杉謙信と武田信玄との間で川中島の合戦が行われた。(川中島の戦いは、天文22年(1553)から永禄7年(1564)まで5回戦われたが、なかでも永禄4年の合戦は最も激烈で、謙信と信玄の一騎打ちが行われたのもこの時であった。)
この永禄4年の合戦で、川中島に近い長沼の浄興寺は兵火に遭い、堂宇が焼け落ちた。そのとき、西賢は宗祖から頂いた古本尊と二十一箇条の禁制などを持って甲斐の国へ逃れたのである。
 川中島合戦の兵火に遭った際の高田の浄興寺史に拠ると、「住職周円焚死す」(高田市寺町 浄興寺略縁起)と記され、第14世の了性が信濃の国で生き延びることとなる。
この系統が、現在の「高田の浄興寺」(現 新潟県上越市寺町)として存続している。

第3段階 甲州・都留・田野倉時代(366年間)

 さて川中島合戦の兵火を避けて、甲斐(現 山梨県)に逃れた西賢のその後のことに移ろう。彼は焚死せず、次男・西順房とともに鶴(現 都留)郡小形山・古屋渡の地にとどまった。
西賢は念仏を広めることに熱心であったので、彼のもとにみ教えを求める村民が集まった。そこで彼は、ここに坊舎を建て「浄興寺」と号し、以後、他力真宗のみ教えを広めることとなった。
西賢が甲州小形山の周辺で布教を始めた頃は、政治的には織豊政権の時代であり、宗教的には一向一揆の最終段階であった。やがて石山本願寺(天正8年 1580)明け渡しを経て、1603年以降徳川幕藩体制に入り、ここに檀家制度が確立する。
 甲州へ入って数十年後、第4世の了樹法師の代に、寺基を数キロ移動し、田野倉の地に移った。(現 山梨県都留市田野倉1358番地 富士急行電鉄 田野倉駅下車徒歩7分)
 第6世の宗玄法師の代に(慶安3年 1650)東本願寺派に転派し、寺号も「法福寺」と改めた。
 それから30年後、第7世宗沢法師は再び西本願寺派に戻るのだが、「法福寺」という寺号はそのままにした。
 それから70年たち、江戸時代中期の宝暦年間(1751~1763)に入ってから、寺はにわかに繁盛し始める。第10世了識と第11世了性の時代である。この時に本堂・庫裏(くり:住職や寺族の住まい)の再建、鐘つき堂や楼門の建築、宗祖の500回大遠忌法要をおこなった。この2人は、法福寺中興の祖といえよう。
 やがて長かった徳川幕府も倒れ、明治維新を迎える。時の住職、第15世真誓は明治年間を完全に生き通した。そして明治39年に八王子市元横山町に説教所を開設した。それは、この都留郡田野倉の地が過疎であったからであろう。
真誓の長男である第16世真賢は、本願寺第22代門主・大谷光瑞師の主催する兵庫県六甲の武庫中学に学び、卒業後も光瑞師に師事しつつ、上海や大連で仏教雑誌の編集などに携わった。

第4段階 東京・蒲田における都市開教の時代(88年間)

 第16世真賢は昭和に入り満州より帰国したが、故郷の山梨には帰らず、東京蒲田の御園町に説教所を開設し、そこを『蒲田仏教会堂』と称した。昭和2年5月のことである。この試みは、西本願寺の「第一次都市開教」と呼ばれているもので、大正12年から昭和7年頃まで行われ、この計画により102か所の布教所が京浜地帯に開設された。
昭和初年頃、蒲田は田んぼや畑、野原や点在する沼などに彩られる、のどかな田園地帯であった。
しかし、折からの満州事変、日中戦争、太平洋戦争に巻き込まれ、京浜工業地帯展開の波を受け、農地は一挙に工場が立ち並ぶ場所へと変貌していった。全国から東京に来られたご門徒は、続々と説教所に参詣され、御堂は仏法聴聞の同行(お念仏をよろこぶ同朋)で満ち溢れた。
ところが、東京は昭和20年4月15日および5月23、25日に米軍のB29爆撃機による大空襲に遭った。それは、多摩川の六郷橋から蒲田駅を通り越し、大森駅まで丸見えとなった大惨事であった。投下された焼夷弾により御堂も火災にみまわれたが、幸い火は消し止められた。しかしご門徒の大半は焼け出され、再び故郷へ帰ってしまわれた。
 昭和20年8月15日、敗戦の詔勅が下り、平和が回復されると、離散していたご門徒も次第に東京へ戻ってこられた。昭和23年3月、宗教法人「浄興寺」という寺号が許可された。昭和35年以来の高度経済成長のあおりと、再度の人口の首都圏集中の流れの中で、浄興寺は再び息を吹き返した。昭和50年に第16世の真賢は本堂を建立した。
 現在は第17世の亮爾が継承し、平成13年に本堂の大改造を行った。寺をこの蒲田の地に開設して以来、ほぼ88年経ているが、お念仏申しつつ、この寺をめぐる来し方、行く末を思うに、年々歳々夢のごとし、幻のごとしといえよう。

平成24年3月17日
住職  田ノ倉 亮爾

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